崇福寺について

崇福寺の歴史

開創400年

徳川家康が江戸幕府を開く3年前の慶長5年3月(1600年)香山泰厳和尚が日本橋浜町に崇福庵を建立しました。

慶長18年(1613年)上野厩橋藩(前橋城主)酒井雅楽頭忠世(さかいうたのかみただよ)の帰依により堂舎を建立し、国府台の総寧寺(そうねいじ)を本寺とし名称を崇福寺としました。

1657年、明暦の大火にて焼失した為、忠世の孫酒井忠清(さかいただきよ)の代に、浅草松清町(現在の浅草郵便局)に1300坪の土地を拝領し移転、本堂を再建しました。

以来酒井家の江戸の菩提寺として永く栄えました。その為酒井家の家紋である「剣鳩酸草(けんかたばみ)」を寺の紋として使用しています。

酒井家は徳川氏の最古参の譜代筆頭で、徳川幕府の大老四家の一つに数えられ、一族から大老や老中を輩出し、代々雅楽頭を任じられていました。

また江戸城大手門付近の酒井家上屋敷の中庭には平将門公の首塚があり酒井家により手厚く祀られ、崇福寺の住職も首塚に供養に出向いていました。

大正12年9月の関東大震災にて被災し、昭和3年6月浅草よりここ高砂に移転、同8年本堂・山門・鐘楼等を再建しました。

酒井雅楽頭歴代の墓所は群馬県前橋市の龍海院にあり、ここ崇福寺は酒井雅楽頭家、伊勢崎藩酒井家の墓所となっております。

右から「海島山」

「龍海院:おもて」
「龍海院:おもて」
「龍海院:うら」
「龍海院:うら」

曹洞宗について

由来

中国の禅僧である洞山良价の「洞」と、その弟子である曹山本寂の「曹」をとって「曹洞」としたのが曹洞宗(そうとうしゅう)の名の由来だと言われています。
曹洞宗の開祖、道元禅師は鎌倉時代に宋に渡り5年間の修行で禅宗を学び、日本に帰国後福井県に永平寺をお開きになりました。
その禅の本随はひたすらに坐禅にうちこむことが最高の修行・只管打坐(しかんたざ)であると人々に伝えました。
その教えは地方武家、豪族、下級武士、一般民衆に広まっていき、そして今では全国に約15,000の寺院を持つ程になりました。

ご本尊

釈迦牟尼佛(しゃかむにぶつ)お釈迦様のことです。
南無釈迦牟尼仏(なむしゃかむにぶつ)とお唱え致します。

両大本山

開祖、道元さまが仏教の教えを中国より日本に伝えられ、道元さまから四代目の瑩山さまがそれを全国に広め、曹洞宗の礎を築かれました。
私達が父と母の両親を持つように、道元さまを父、瑩山さまを母と考えております。
その為、道元さまがお開きになった福井県にある永平寺と、瑩山さまがお開きになった横浜市にある總持寺と言う二つの大本山があります。

総持寺:神奈川県横浜市鶴見区鶴見
永平寺:福井県吉田郡永平寺町志比

よく読まれるお経

摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)
妙法蓮華経観世音菩薩普門品(観音経)
妙法蓮華経如来寿量品
大悲心陀羅尼
修証義
 

宗門の学校

駒澤大学、東北福祉大学、愛知学院大学、鶴見大学など

崇福寺始源傳來之記 

 

崇福寺始原伝来記の大意

海島山崇福寺は、曹洞宗布教の僧香山泰嚴が其の始めである。この泰嚴という人はどこの出身かはわからない。
慶長五年三月香山泰嚴は江戸に来て、浜町に庵を建て崇福庵と名付けた。
其の後庵のある場所から江戸城西郭の建物を建てるための木を納めることになった。前橋城主の酒井忠世が材木監督にやってきて崇福庵で休み泰嚴にあった。
二人は言葉を交わし親しくなり、この時から忠世が泰嚴を屋敷に呼んだり崇福庵に来たりして親しく交流した。

慶長十八年忠世が殿堂、厨房、門郭、僧房など寺の建物すべてを建てた。この時庵を改めて寺として、海島山崇福寺と号するようになった。この時から酒井家位牌を安置する寺となった。すばらしい場所であるが、災害にはどうしようもできない。

明暦三年一月十八日、空が暗くなるほど砂を巻き上げる北風の強い中で火災が起こり、江戸の武家屋敷、町屋、神社仏閣がすべて燃え、焼け野が原になった。崇福寺も火災にあった。其の後浜町の場所を公議が使うことになり、浅草に一三〇五坪二合五勺の土地を拝領した。此の時忠世の孫酒井忠清の家臣渡邉清大夫と鶴見治左衛門がきて寺の運営にあたり、殿堂や廊閣をすべて再建した。
(この火災は、いわゆる明暦の大火で、明暦三年正月十九日小石川伝通院前の火災(第二の出火)では大手門前の酒井家上屋敷が類焼した。神田にあった新小田原屋敷も焼失した。更に寛文元年に上屋敷が焼失した。その後上屋敷は公議に召し上げとなり忠清は巣鴨の下屋敷に移った。)

寛文二年六月二十八日、玉岫嚴瑳和尚が泰嚴和尚に代わって住職となり、第三世となる。

玉岫和尚は泰嚴和尚の弟子で、実は第二世の住職であるが、事情があって第三世とした。この事情は寛文八年の条に書いてある。

寛文四年五月十四日、また猛火にあい焼失し、酒井忠清が造営する。まず霊廟を造り、酒井忠世、忠行の位牌を収め、その後寺の建物を建てた。

寛文八年、総寧寺十七世の骨山恕徹和尚にお願いして開山始祖となっていただき、泰嚴和尚が退いて第二世の住職とした。住職一世を増やすことで、始祖の住職を尊重し、法流を厚くした。このため嚴瑳和尚は第三世となる。この時酒井忠清からは黄金百両を贈られ、衆寮を建てた。

寛文九年、団金百片を(酒井忠清から)贈られ、山門、鐘楼、鐘を造った。

寛文十一年十二月九日、不変霊松和尚が嚴瑳和尚に代わって第四世となる。

貞享三年八月二十八日、紹峯嚴碩和尚が霊松和尚に代わって第五世の住職となる。在職わずかに八年で、其の間変わったことはなかった。霊松和尚は元禄六年十二月二十四日に亡くなる。

貞享三年八月三十日、棠外香海和尚が嚴碩和尚の法脈を継いで第六世の住職となる。香海和尚が住職となって元禄十一年九月六日に江戸城東の町屋より出火して火災が浅草に及んだ。崇福寺も焼けてしまった。このとき酒井忠挙の屋敷も焼けた。そのため崇福寺の再建ができず、茅葺きの建物を造り、中を分けて仏間と台所として念仏や座禅を行った。
(この火事を別名勅額火事という。別紙参照)

元禄十二年、酒井忠挙が寺の四囲境を作る。

元禄十二年八月二十八日、彭雲松瑞和尚が香海和尚を継いで第七世の住職となる。

元禄十三年、先祖を祀る廟ができる。

元禄十四年、酒井忠挙が殿堂、厨房などを作る。前にも増して立派な建物になった。

元禄十五年十二月二十六日、北隣の本願寺から出火して崇福寺の建物が焼ける。忠挙が殿堂、厨房を造る。

(宝永元年四月二十八日浜町の酒井家中屋敷が類焼して届けを差出ている。)

宝永五年一月、酒井忠相が厨房、衆寮を建てて寺院のすべての建物がそろう。
(酒井家は宝永五年に再び大手門前の屋敷を拝領する。享保二年一月三日、安永元年二月二十九日に類焼したが安政四年まで酒井家当主が居住する。享保六年三月四日巣鴨の酒井家下屋敷が牛込から出た火事で類焼する。)

正徳二年十二月十三日、松瑞和尚は事情があって住職を辞め、寺から去る。

正徳三年一月十七日、海翁泰穏和尚が第八世の住職となる。現在の住職である泰穏和尚は一ヶ月の放参の勤めの間に考えたことがある。軽い日常のことに比べれば酒井家歴代の当主から頂いた恩恵を重く感じている。崇福寺に足らないものは、寺院開基の始めが住職が変わって記録が欠けていることだ。これがないということは闇夜に灯りを失い、寺が本寺を失うようなもので、軽んじてはいけない。私は今住職として日を過ごしているが、寺の記録を後世に残して、後の住職に伝えたい。しかし、これは個人的に行うことではないと思い、享保五年、昔からの記憶にある事実を極めたいと酒井忠挙に願い出た。忠挙はこの願いを聞いて家臣の古市宜住に命じて撰文させた。宜住は年齢が七十二歳で還暦に十二年を加える歳で、気持ちもくらく、文章もうまくでず、口にいばらが入っているようである。しかし君命を辞することはできず、つたない文章ではあるが、寺の始まりからの歴史を記して忠挙に見せた。忠挙は数回最初の文章を読み、ごたごたした部分を削り、欠け落ちている部分を補って正しいものにした。これで後世参照する記録となった。

享保五年八月吉日
従四位前の近衛少将、源の朝臣酒井忠挙 印

この記録を海島山崇福寺の現住職である海翁泰穏和尚に付与する。

家臣の儒学者であった古市宜住が君命を受けて撰文した。

徳川将軍家は代々続き、天下は落ち着き、そのお名前は喜ばしいことにずっと続いている。

酒井家も同じように続いて永く栄えるように願う。そうすれば崇福寺もいつまでも酒井家に従って幸せでいられる。